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山鉾のいくつかには、このように前後に木が置いてあります。 
これが何に使われていたものかは分かりません。(奥が深いですね)
1枚目を見ると、天保の頃にはただの観音山と呼ばれていたことなどが分かります。
天保ですよ天保。
天保の改革の水野忠邦の頃のものと思うと、テンションが上がります。
反対側には昭和62年のもの。
この頃はすでに南北と会ったのだと思います。