結論から言うと、高野山の旅はなんとなく未消化感や失敗感が残りました。

基本的に、私は旅行先についての「予習」をあまりしません。
また、自分のことを有神論者無宗教者と思っていて、神社・お寺をまわっていますが、旅人としての興味だったり、ちょっと格好良く言うと博物学的な興味の方が大きいというのが正直な気持ちです。

日本の神さまは「八百万の神」という表現をします。
例えば伊勢神宮外宮さんの中に「地蔵石」と呼ばれる仏教界のものがあったり、熊野でも高野山のお坊さんと思える方が熊野の神社をまわっている姿などに、この「八百万の神」的な日本らしさを感じて面白いのです。
信仰心があるといえば、私はこの「八百万の神」への信仰とおもっていますので、特定の信仰をしている方から見れば、全くダメダメなんだと思います。

高野山では、その方針が裏目に出たというべきでしょうか。
ある意味、高野山を知る上では良かったとも思っていますが、朝の早い段階から「大師教会」に行ってしまいました。
ここで先制パンチを喰らいました。
観光バスで老若男女60数名が押し寄せて、真っ暗な部屋に通されて阿闍梨さまからお言葉と「菩薩戒牒」なるものを頂いたのですが、みんな当たり前に「なむたいしへんじょうこんごう」などと言い出すんです。
私は、真似して唱えながらも「へんじょう」の字が全く浮かびませんでした。(恥)
「南無大師遍照金剛」と書くのですね。

もう一つ驚いたことがあります。
そのような方々はお仏像などには全く興味がないかのように見えました。
そして、あちこちに飾ってある弘法大師の御影の前にはジャラジャラと、それこそお相撲さんが土俵に塩を撒くかのように入れまくっているのにです。
最後の奥の院の裏手の弘法大師御廟でやっと高野山を理解しました。
奥の院は、上がって落ち着いてお詣りできるのにガラガラ。
団体さんは、みな裏に行って御廟の前で、しかも何も見ずに幾種類かの「お経」?をあげているのです。
遅い時間なのに凄い人だかり。
・・・高野山は弘法大師さまが最上位なんだ・・・。

なんか、呆気にとられたままに1日を過ごした問のが本音で、改めて高野山には行ってみたいと思います。